今日のゼミは、ミズノプロジェクトでやってきたのはどんなことだったのかという話とそのふりかえり、そして、この経験は何に活かせるのか考えようという内容でした。
▷プロジェクトのふりかえり
ユーザーの体験価値をベースにした企画
ミズノプロジェクトは、実現すべきユーザー体験とその効果の可視化の手前くらいまで行った。
ユーザーの体感価値を探策するフェーズは、頭を使う作業で、どんどん哲学的になってくる。
コンセプトアイデアは、引き出しが多くないと出てこない。引き出しを増やすためには、ムダなことをいっぱいやるといい。
企画した体験を実現するフェーズの中のユーザテストとは、プロトタイプをユーザーに渡してみること。渡してみて、ユーザーはシナリオのように使うのか試そう。ユーザーが受け取って終わりだったらダメ。
ユーザーモデリング
誰(属性層)がどんな体験(行為層)をすることでどういう価値(価値層)を得ているかという全体像を可視化することで、ユーザーに対する深い理解を得られるようになる。
人間中心設計プロセス
システムなんかはこれをもとにつくってる。
FUポータルは、システム。
システムとは、ある目的を達成するために必要な相互作用する複雑で多様な要素から構成された仕組み(組み合わせ)。
語源は、ギリシア語の 「συνίστημι」(スュニステーミ)「組み立てる」を元に作られた語句であるが、 これは「共に」を意味する「σύν」(スュン)と「立てる」を意味する「ἵστημι」(ヒステーミ)を組み合わせた動詞。
ゴムのユーザー
1枚目のユーザーの体感価値を探策するフェーズと密接な関係をもつ。
おもいっきり空振りしないための方法。
自分たちが想定したいないことがはまればビックヒットになる。
(例)ノンアルコールのお酒は、帰りの運転があるため、本当はお酒を飲みたくても飲めない人が、お酒を飲んだような雰囲気を味わえるようにという狙いだったが、それが妊婦さんや病気を理由にお酒を禁止されている人の欲求にもはまり、ビッグヒットになった。
具象と抽象
頭の使い方のこと。
具体例を抽象化することで、どこか他のところへ持っていって、そこに当てはめることができる。
洞察とは、ユーザーの口にしていない欲求を見つけること。
▷なぜ抽象化するの?
就活の面接は、自分の経験がその仕事とどう当てはまっていて、どう活かせるのかをアピールするところ。つまり、自己PRは相手が求めていることを話すこと。
これは、商品提案や営業もそう。
下手な人は、自分や自社のことばかり話すけど、上手な人は、相手のことを見たり(観察)聞いたり(インタビュー)して、UXは基礎教養として身に付けている。
体験でしか語れないようになってはいけない。
それは人事の能力に全てを委ねていることと同じで、主体的でない。
だから、自分の経験が何に活かせるのか考えることが大事。なんでこれが活きるの?とかなんの力が隠れているの?(例えば、人の話を聞く力)とか問いかけよう。
そのためには、日頃の学びや気づきを記録しておくことや、業界や仕事の内容を知ることは不可欠。
▷プロジェクトの経験は営業の仕事にどう活かせる?
先生から聞いた事例
石村萬盛堂は、ホワイトデー発祥の和菓子屋。なぜそんなことをしたのかというと、バレンタインデーにチョコを貰った男性は、女性に間違ってないものを返したいという欲求があった。そこで、「ホワイトデーにはマシュマロ」という定番をつくり、その欲求を満たした。
このように、ユーザーの欲求をついた流行や習慣をつくり、その定番商品として販売するという手法がある。
では、そこまで影響のない企業はどうすればいい?
例えば、鍋のスープの会社の営業になったとして、スーパーに自社の商品を置いてもらうにはどうしたらいいか。
それは、スープコーナーではなく、鍋の具材の近くに置いてもらうこと。お客さんの行動パターンを見ると、その方が手に取りやすい。大勢の中だと選ばれにくい商品でも、味が美味しければ負けない。
そして、他社がそれを真似することで鍋コーナー自体が大きくなる。そこで存在感が出せれば、定番商品になるかもしれない。
ただ、ずっとそのままではいけないので、また新しいアイデアが求められる。だから、営業の仕事にもクリエイティブな発想が求められている。
つまり、ええっと
先生から聞いた事例だと、絆創膏の行動観察とミズノプロジェクトの上位下位分析を合わせる感じかなと思いました。ユーザーがどんな風に利用するか見て、その事象を集め、そこから欲求を探る。そして、見つけた欲求を満たすためには、どうすればいいのか考える。出てきたアイデアは、ユーザーテストをして、ブラッシュアップし、ユーザーや提案する相手が欲しがるところまで持っていくという感じかなと思いました。
でも、これが具体なのか抽象なのかわからなくなり、具体に戻すで合ってるっけ…?といった気持ちです。
どこからが経験?
私は気づきや学びに気づいても、身についていないことが多いです。こういう場合は経験といっていいのかなと思いました。経験してても忘れてたらダメじゃない?とか、経験も事実ベースにすべきなの?とか。でもそれだとあれやったこれやったになりそうです。結局、学びって事実なの?それは経験なの?どこからどこまでが経験と呼べるの?となりました。やったことと学びの境界線がわからないなと思いました。