す56

自由帳

模索体力と実験精神

テーマが与えられるとすごいやりやすいんだなと思った今日この頃。


ゼミ時代のテーマ『模索体力』と『実験精神』をふりかえります。

今はこの言葉からどういう思考になったのか記録。

 

模索体力

情報を集め続けて、状況を前に進めること。

「要するに〜でしょ」「結局、〜なだけでしょ」とか話をすり替えない、脱線しないこと。唐突にいろんなものをギュッと縮こめない。


模索体力は記憶力は依存する。

想起する力、記憶を保持する力、物事を正確に認知する力がなければ模索できない。


では、正確な認知とは何か?

素直なこと。他者からの影響を切り分けることができ、自分の本音と建前、本当と嘘が自分でわかること。


模索体力の前提には、意外と自分がどんな人かを自覚しておく必要があるのかもしれない。


好みや思考パターンと、行動パターンを切り分けて俯瞰する。口から出た言葉を手繰り寄せて、どの記憶に紐づいているのかをふりかえる。


打っていった点の中から、好きな時に好きなように線を引いて出来上がった真実は、事実でなかったりする。いづれ辻褄が合わなくなると、真実によって自分が振り回されることになる。


自分を自覚することによって、本当にそうなのかと問い直すことができる。

 

 

実験精神

ピンとこなくて、過去のブログから探しました。

実験精神とは、「小さく始めて早く学ぶ」こと。


「大きく始めてゆっくり学ぶ」と比較して、より重要なのは「早く始める」ことではなく「早く終わる」かどうかだ。


そう考えると、実験精神の敵って「早く始めて小さく学ぶ」ことのような気がしてくる。


急発車したものは、割とすぐ急停車する。

ゴールを見据えての発車ではなく、早く始めるための発車だから。辻褄の合わないことがあらゆる方向から飛び出してくる。

急発車と急停車の繰り返して迂回する。どっちを向いているのか、どこに行くべきなのかわからなくなる。


こうなると、終わらせるのに時間がかかる。

その頃には、同じノリで他のことを急発車させている。そっちの急発車・急停車に手が取られて、優先順位は下がり続け、放置されたまま残る。


急発車と急停車の繰り返しの中で、企画意図や仮説も消え去ってしまい、その時点で実験ではなくなる。

その結果、記録もふりかえりもなく、得られる学びが小さい状況に陥りやすいのかなと。


あとは、小さく始めて早く学べるものが、早く始めて小さく学ぶものに巻き込まれたり、邪魔をされたり。

 


とかぐるぐる考えてると、仕事の中だけで実験するのむずくね?と思ってきた。


逆に、習い事や趣味だとめっちゃできる。

効率を求めるならやっぱり金を払う必要があるのか・・・?奥で仕事として運営してくれてる人がいるからね・・・娯楽は金を払うことで得られる、効率的な充実の接種方法なのか・・・。となると、コスパとかタイパの概念めっちゃおもしろくない?次のやつ予想したい!となったところで力尽きた。


仕事と習い事・趣味の行き来の中でちっちゃく実験できてれば、そこはすごくいいところで、身の回りの人に恵まれてるってことなんだろうなと思った。

🎏

大学を卒業して一年。わかったのは、自分の思う自分とは案外脆いということです。

たぶん、家族とか自分以外の人から見ると、私は変わっていないのだけれど、

私自身は細かく見えるので、差異みたいのを感じます。

 

MBTIとかで出てくるのは「自分の思う、自分の好きな自分」だと思ってます。

それって見積もりという側面が強いと思うんです。

 

自分で選ぶにあたって、見えているのは、理想であり、好き嫌い。

なので、前提とか偏見が加わると同時に変わっていく気がします。

だから、結果に対して、そうかも!に加えて足りないものも感じる。

足りないものというのは、具体的な指摘ではなく、疑う余地みたいなものです。

 

そして、前提や偏見が見えなくなると、そうだ!と思えるのだと思います。

というか、そうだ!と思う(理想の)結果を自分で出すのです。

だって、気にしなければ出せるから。

 

でも、これを自分を信じるって言ってしまうのは、なんか違う気もします。

信じる(すべてと思う)のは勇気を持つためであって、比較のためというのはなんか…。

 

f:id:Shinkansen:20230507024533j:image


それで、じゃあこれからどうすればいいのかを考えてみると、「大切な人の言葉を忘れずにいて、あとはどうでもいいのではないか」という答えになりました。

 

大切な人の衝動こそ、逃しちゃいけない感あります。衝動が衝動を呼ぶというか。

不思議と最初から信じてるし、衝動に嘘はない。誰のどんなニュースより最重要トピックで、今しかない。逃せば埋もれてしまうけど、手に入ったら廃れない。

だから、聞く。そして、とっとく。


せっかくこのブログもあるし、ちょっと自分の捉え方を変えて、これからも使いたいと思っています。

(すでに祖母語録になりつつある)

 

人によって、ブログに対する捉え方、見方が違うことを感じています。

私にとっては、落書きみたいな感じです。

 

f:id:Shinkansen:20230505225047j:image

「答えを求めようとする呪縛から逃れる」とは?

記憶に残っていたツイート。

ずっと、わかりそうでわからなかったです。

 

ひとつの仮説が浮かんだ今日だったので、記録しておきます。

 

 

■「答えを求めようとする呪縛」とは何か

現時点での「答えを求めようとする呪縛」とは、「意識の中で過去に縛られる」ことです。

 

たとえば、現在A地点にいて、目の前にBという分岐点と、B1とB2の選択肢を見ているとします。

まだB1もB2も選んでいなくても、それぞれを選んだ状態はイメージできて、どちらを選んでも後悔するイメージによって、今苦しんでいる。という感じです。

つまり、現在(A地点)から、将来の自分が過去(A地点)に対してするであろう後悔を見ています。

 

ですが、これは性格というよりか自然なことで、「過去に縛られる」=「悪」ではないと思いました。

田村先生の講義で「人間は過去に縛られる生き物」だと習ったことがあります。

平井先生には「記憶と知覚は相互媒介的である」ことはずっと習ってきました。

なので「まだB1もB2も選んでいなくても、それぞれを選んだ状態はイメージできて」、よって人はシステム上、「過去に縛られる」ものだと思いました。

この「システム上」を「無意識下」と捉え、「意識の中で過去に縛られる」に着地しました。

 

簡単に言うと、「ちゃんとしようとする」ことです。

 

 

■「答えを求めようとする呪縛」から「逃れる」ということ

「意識の中で過去に縛られる」ことによって苦しむ原因は、分岐点がひとつしか見えていないことではないかと思います。

 

つまり、B1とB2のどちらを選んだとしても、その先に、Cという分岐点を作ることの方が重要ということです。

新しい分岐点を自分で設けることが、「小さく始める」ということだと思います。

これを積み重ねることが解決法です。

 

大きな問いと答えひとつ(答えを一度に出す)ではなく、小さなと問いと答えの繰り返し(問い直し続ける)によって、答えを「求めよう」とする呪縛から逃れられるのではないかと思いました。

 

 

■「答えを求めようとする呪縛から逃れる」とは何か

この言葉は、「前向き」という言葉に言い換えられるのではないかと思います。

 

よく祖母は「前向き」に「笑顔」でいれば「なんとかなる」と言います。

ずっと、へぇ〜としか受けとれていませんでしたが、祖母はあのツイートと同じことを言っていたのではないかと思い出しました。

 

 

以前言葉の意味を聞いて返ってきたもの
ケ・セラ・セラは子どもの頃よく歌っていたそう

 

失敗しても、なるようになる。する。

(今日失敗した)

卒論をふりかえる

卒論が終わったので、卒論ふりかえりブログです。

今回、反省点となったのは、「エッセイ風になる」「仕事(今回は卒論)のこなし方」。そして、先生がよくおっしゃる「大人はすぐ褒めるから気をつけて」。

課題はこれなのですが、では、何を気をつければ良いのかがうまく掴めません。

なので、課題を混ぜながら考え、なんでそうなったのか、なぜ気をつけなくてはいけないのかを整理することで、課題を掴み、どう気をつければ良いのか、がわかるようにしたいと思います。

 

私って、人やそれによって生まれる自分の理屈ばっかり覚えているのではないかと思えてきた。学校で理論を学んでも、理屈にして、知識の収納庫に入れているのではないかと。

(「考えるの好きなんだね」と言われると、YESと思うのに、「勉強が好きなんだね」と言われると、んー🤔となっていた。)

【A】自分の考えをまとめる、エッセイ的な伝え方(=レポート)

【B】先人の知恵と事実に基づいて答える、研究的な報告(=論文)

自ら立てた問いに対する取り組み方として、AとBの2パターンある。だが、Bを知らなかった。そのため、そこを分別できず、全てAで取り組もうとした。

だから、卒論も自分の考えを述べる場だと思い、エッセイ風になっていた。

論文は、他人の言葉を使いながら書いていって、それでも表現できない何かがあって初めて自分の言葉を紡ぐ。

Aばかりだと、大人はすぐ褒めるから、法則化されていないフワッとしたものをフワッと褒められる。すると、自分の考えに信仰しすぎるかも。だから気をつけて。

それに、AをBで当てはめる(置き換える)ことによって、「あぁそうなんだ、そう言われてるんだ。」と、新しい感動が生まれる。

だから、Bもできるようになろう!

 

となると、私は「伝わらない」のではなく、「伝える気など1ミリもない」のかもしれない。

話したい人だけに話してたのかなあ。聞いて聞いて!みたいな。もはやそれだけ。それが私の承認欲求の形だったのかも。

だから、書いては消して、話しては訂正して、を繰り返しがち。伝えたいことがまとまっていないのに、気づいたことを話してしまう。
聞いて!が先行して、相手と話自体に対する見やすさ、返しやすさへの気遣いが、会話の中盤とか終盤に急にきて、あっ、てなる。

伝えたいという意味では、話の中身というより、別のものを伝えたかった(自分の存在を確かめたかった)のかしら。もはや、理論ではなく、理屈として受け取ってほしいみたいな。そういう気持ちではないけど、無意識下で、そう考えてたのかもしれない。

だから、理論をつくることへの意欲が湧かなかった。理屈が見えたら嬉しくなって、もう聞いて聞いてゾーンに行く。それが話の種で、見てほしいものだったから。アウトプットすると、あぁ楽しかった、満足。みたいな。

ふりかえると、会話もAになってた。先生はB、もしくは、Bと自分の考え(A?)という感じだった。就活のときはBもやってたと思う。インターン先の上司に見せ方、伝え方として教わったから。でもなぜか、どちらも終わった途端にすっかり忘れていた。

AルートとBルートでは話の結末が違ってくるもんなあ…。Bで話すことで、会話の到着点が互いに見えるようになる。自分のことしか考えてなかったなあ。

AもBも手段というか基礎的な道具で、どちらが求められているかを判断し、求められた方を使ってコミュニケーションを図ろう!

 

f:id:Shinkansen:20220130173150p:plain

青線を意識しよう

まずは、100%はどんな状態かと目標を定める。そこから分解していって青線でこなす。全体像をイメージして、目標と期日を定めることで、課題はタスク化できるようになる。

今だと、引越し準備。引越し準備という課題をそのまま持っていたら点線になってしまうので、目標と期日を定めることから始める!

 

卒論をふりかえったら、社会人になるのが不安になってきました😧

ですが、気づけたのでよかったです。自立への基礎となる気がする。頑張ってほしい、私!

スワンボート

スワンボートにはじめて乗ったのだが、すごいよかった。

遠くからボートが見えた時は、歩いてるだけでこんな寒いのになんで乗るんだろうと思っていたが、いざ乗り場が目の前にくると、じわじわと乗りたくなってくるものですね。

 

あれは、池の中に放たれて、全くルートの無い中で舵を切る。いってらっしゃいと言われて出発して、出発した場所に戻ってくることだけはわかっている。

 

制限時間まで、気ままに進む。

出発直後は、なんだこれどうすればいいの状態だった。お父さんが自然と舵を取った。

 

鴨とカモメがいた。カモメじゃないかもしれない。白い鳥の名前がわからない。カモメというあだ名ということで。

f:id:Shinkansen:20220114041019j:plain

鳥たちはどこに向かっているのか泳ぎ続け、カモメは、たまに、餌を目掛けて飛ぶ。

角度によって、水がキラキラ光った。

ボートに乗り、はじめてカモメの集団が飛んだのを見ると「うわああああ!」と二人で感嘆していた。いきなり、近くで、たくさん、カモメが飛んだから。

その後から、私は、カモメが飛ぶのを心待ちにした。それを見るためにボートを漕いで、スマホを手に持った。

 

あそこに行こうと言うと、一旦漕ぐの止めてと言われた。風と、それによって変化する水面の影響で、漕がなくても船は動いていた。それによって、漕ぐ力も変わった。

 

動き、揺れ続ける船上で、写真を撮るのは難しいものですね。形に残すのは難しい。

写真の撮り方を知らんな、シャッターチャンスがいつくるのかも、どれがそうなのかもわかんない、と思った。というか、どんな構図で撮りたいのかすら考えていなかった。手が寒い、スマホを池に落とさないようにしないと、と考えていた。

そうは言いつつ、カメラは構えて待っていた。だけどなかなか飛ばないので、適当なタイミングでシャッターを押した。

f:id:Shinkansen:20220114040951j:plain

f:id:Shinkansen:20220114041009j:plain

撮った写真をこうして見てみると、スワンボートのこの骨格って、眼鏡のフレームみたい。

白いフレーム(フロントピラー?)が汚れている。なんで白鳥なんだろう。

f:id:Shinkansen:20220114041017j:plain

白い枠が視界の周りにある感じ

要らないと判断したものはフレームから外し、フレーム自体も映らないように、カメラを動かす。無意識下で、そうやって写真を撮り、形になる。

形になる・・・形成される、残る、それが答えとなる。

乗っている途中、ばあちゃんから何してるのとラインが来たので、写真を送った。

 

景色とは、常に、動きの中で、フレーム越しにあるものだと気づく。

色眼鏡というと、レンズのことを指しているのかと思っていたが、フレームもあるなと思った。

レンズの色や度数は簡単に変えられないけど、首を動かすだけでフレームはフレームとして機能する。

全く「異なるもの」の集まりから「同じ」を作ることは、同時に、新しく「異なるもの」を生み出しているのだ。

言い換えれば、排除行為だ。排除と同時に、景色は成り立っているのだ。そして、フレームの外には、また別の景色があるのだろう。

一つの現実の中に、複数の景色があるのだ。

「排除」とは、生き物にとってすごく前提的なもので、永遠のテーマかもしれないと思った。

連想ゲーム

ある曲を聴きすぎて、歌詞にある「味気ない」について考える。

なんで味気がいるんや。
「味気ないとか言ってる人が味気ない」とかなんとか言われそう。

言葉の意味をつなげていくと、味気→味わい→趣→風情→どことなく哀れな様子→同情(を誘うようなさま)→自分のことのように思いやって労る、思いや心を同じくする、だった。

人はなぜ同情するのか。

人間の一次感情は「悲しみ」らしい。
私たちは悲しみたいのだろか?
いや、悲しみでしか物事を測れないのだ。
(悲しみを別の感情に置き換えているから。)
感情が大きければそれだけ重大、ということか。
だから人間は悲しみに敏感なのかな。
感化されやすいというか。 

なぜだ。
悲しみが何を呼ぶというのだ。

悲しみによって、他人とひとつになったような気になれるのか。同一に見えてくる。

同情は共感と違って、相手を「わかる」ことではない。何かを感じた上での心の動きの話だ。
共感は心で起き、同情は本能が起こしている。気がする。

なるほど、だから恋(恋愛物)には悲しみが必要なのだ。
起承転結の転。構図からの脱却。
「メインヒロインルートに至るための選択肢であり、より深い絆を紡ぐクライマックスイベント」って、詩羽先輩が言ってました。

つまり!味気だ〜
転って味気でしょ。

「悲しみ」にはポジティブな面があることがわかった。

悲しみと切なさは似ているようで、全く別のものなのかもしれない。

切なさはきっと、本人以外の誰のものにもならない、誰に理解されるものでもないのだ。

切なさはその人の魅力を上げるものであって、誰かと共有するためのツールとはならないような。(それは悲しみとか寂しさの面であって)

わからん。

 

このままだと気持ち悪すぎるので言い訳。

2年の時ゼミで愛着を、3年の時宗教学で愛を、4年の時西洋文学で恋愛を取り扱っているので、モヤモヤの種が次々とでてくるのだー

さっき、ばあちゃんからこんな連絡が。

f:id:Shinkansen:20211012214713j:plain

朝鮮つけ = キムチ

モノは壊れる。

思い出があると寂しくなる。だれかと繋がっていたモノなら余計悲しく感じる。
けど、捨てても消えるわけじゃない気がする。

けど、壊れたことは悲しい。

 

美しいものは華やかさの中に哀愁があると言う。

思い出(コト)って美化されるし、壊れるんじゃなくて忘れる。
そう考えると、モノは壊れるから、モノの方が美しいのかなって思った。

それとも、思い出の中の哀愁は変わらないものなのかな。

美しいものはモノとして捉えている。気がする。

美化ってあれか。モノとして捉えるってことか。

 

ちなみに、美化しないとやっていけないと思います。

美化とはなにか、成長なのか。

青春との対比だ。

 

ばあちゃん

ばあちゃんはものを大切にしている人だ。

お母さんが捨てたフライパンを拾っていた。自分は雑に扱うからちょうどいいって。

私の小学生の時の資料集も拾っていた。もってるよって見せられるけど、読んでいるところは見たことない。けど、もっている。

勿体無い精神、とは違う。必要だからもっていて、決してケチな人じゃない。

誰かに繋がるようなものなら、日付を書いて取っておく人だ。写真に日付があるように。ばあちゃんの部屋は、ばあちゃんと、いろんな人の痕跡みたいなのを感じる。

時間を止めてあるようで、流れていることもまた実感する部屋。

ばあちゃんが、私たちと一緒に過ごしている。

「ばあちゃんがいるからあなたがいるのよ〜」って言われた。そうだ。

ばあちゃんの時間の中で私は誕生した。同時に私の時間軸が生まれた。私にとって、最初から、ばあちゃんはいる。

そうやって繋がって、続いていくんだ〜って思った。

何事も、きっとそうだと思った。愛が世界をまわらせる

人生哲学はなにって聞いたら、繋がりって言ってた。一人じゃ生きていけないからって。周りを恨まず、笑っとけ、と。笑いにもいろいろあるような。

 

話を戻す。

でも、壊れたら捨てるのが早い。いつも事後報告だった。捨てていいんだけど、早いな!って思う。

なんで、早いんだろう。なんで、「もう捨てたんかい」って思うんだろう。

 

モノはモノとして機能しなくなる日が来る。

人だってモノだ。(実体って意味で。人って実体だっけ?)

離れている間に壊れるのは嫌だな〜

すごい嫌だけど、でも、存在はなくならないのだ。

壊れる前には戻れないから、すごい嫌だけどね。

だから大切にしたい。

大切にするってなに、使い続けるってこと?
使うってなに、活かすってこと?
活かすってなに、居場所があるってこと?
居場所があるってなに、存在を許すってこと?

お父さんが言ってた、ウイルスだって居場所を求めてるって。

ばあちゃんは、必要だと認めてくれる人なんだなあ〜

 

大切とは正反対なのに、大切にもってるってこともあるよね。

忘れたい!って言いながらもってる、みたいな。

 

あの鉢が目に止まるといつも同じ話をしてた。「これはあなたが朝顔育てた鉢」って。

鉢に大きく名前が書いてあることで、そのことを証明している。担任の先生が書いた、その字を見ている。

自立とはたくさんの依存先をもつことらしい。
依存先がひとつ減ったような気持ち。

 

忘れるっていい。私は何も否定しなくて済む。

じゃあ、捨てることは否定なの?

否定かもしれない。否定しないとバランスとれないもん。

だから、いつ否定してもされてもいいように、代わりに肯定できるされるものをもっておこう。

ばあちゃんは代わりをたくさんもってるんだろうな。

だから捨てられるのかな。

処分って書いてあるし。廃棄じゃないんだな〜

処分とは、捨てたり売ったり誰かにあげる等して手放す事を言い、廃棄とは不要になった物を捨ててしまう事である。

でも代わりなんてなくて、否定できないものはあるから。そのときは忘れるか、ずっと大切にもっておくしかないんだろうな。

 

追記

家族で写真を飾るのは、ばあちゃんだけだ。

私は、写真に残すことの良さがよくわからなかった。

むしろ残さないで〜という感じで、撮るのも見るのも飾るのも、関心がもてなかった。

だけど、「そこにある(残る)」ことで肯定だと感じる、そういう写真の良さに気づいた。

「モノは見せかけで、コトが本質」ではない。

形にする、目に見える、そこにある、ということは、素晴らしいことなのだと、ばあちゃんの部屋を思い返して学んだ。

なので私も、このブログを残す。