す56

自由帳

さっき、ばあちゃんからこんな連絡が。

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朝鮮つけ = キムチ

モノは壊れる。

思い出があると寂しくなる。だれかと繋がっていたモノなら余計悲しく感じる。
けど、捨てても消えるわけじゃない気がする。

けど、壊れたことは悲しい。

 

美しいものは華やかさの中に哀愁があると言う。

思い出(コト)って美化されるし、壊れるんじゃなくて忘れる。
そう考えると、モノは壊れるから、モノの方が美しいのかなって思った。

それとも、思い出の中の哀愁は変わらないものなのかな。

美しいものはモノとして捉えている。気がする。

美化ってあれか。モノとして捉えるってことか。

 

ちなみに、美化しないとやっていけないと思います。

美化とはなにか、成長なのか。

青春との対比だ。

 

ばあちゃん

ばあちゃんはものを大切にしている人だ。

お母さんが捨てたフライパンを拾っていた。自分は雑に扱うからちょうどいいって。

私の小学生の時の資料集も拾っていた。もってるよって見せられるけど、読んでいるところは見たことない。けど、もっている。

勿体無い精神、とは違う。必要だからもっていて、決してケチな人じゃない。

誰かに繋がるようなものなら、日付を書いて取っておく人だ。写真に日付があるように。ばあちゃんの部屋は、ばあちゃんと、いろんな人の痕跡みたいなのを感じる。

時間を止めてあるようで、流れていることもまた実感する部屋。

ばあちゃんが、私たちと一緒に過ごしている。

「ばあちゃんがいるからあなたがいるのよ〜」って言われた。そうだ。

ばあちゃんの時間の中で私は誕生した。同時に私の時間軸が生まれた。私にとって、最初から、ばあちゃんはいる。

そうやって繋がって、続いていくんだ〜って思った。

何事も、きっとそうだと思った。愛が世界をまわらせる

人生哲学はなにって聞いたら、繋がりって言ってた。一人じゃ生きていけないからって。周りを恨まず、笑っとけ、と。笑いにもいろいろあるような。

 

話を戻す。

でも、壊れたら捨てるのが早い。いつも事後報告だった。捨てていいんだけど、早いな!って思う。

なんで、早いんだろう。なんで、「もう捨てたんかい」って思うんだろう。

 

モノはモノとして機能しなくなる日が来る。

人だってモノだ。(実体って意味で。人って実体だっけ?)

離れている間に壊れるのは嫌だな〜

すごい嫌だけど、でも、存在はなくならないのだ。

壊れる前には戻れないから、すごい嫌だけどね。

だから大切にしたい。

大切にするってなに、使い続けるってこと?
使うってなに、活かすってこと?
活かすってなに、居場所があるってこと?
居場所があるってなに、存在を許すってこと?

お父さんが言ってた、ウイルスだって居場所を求めてるって。

ばあちゃんは、必要だと認めてくれる人なんだなあ〜

 

大切とは正反対なのに、大切にもってるってこともあるよね。

忘れたい!って言いながらもってる、みたいな。

 

あの鉢が目に止まるといつも同じ話をしてた。「これはあなたが朝顔育てた鉢」って。

鉢に大きく名前が書いてあることで、そのことを証明している。担任の先生が書いた、その字を見ている。

自立とはたくさんの依存先をもつことらしい。
依存先がひとつ減ったような気持ち。

 

忘れるっていい。私は何も否定しなくて済む。

じゃあ、捨てることは否定なの?

否定かもしれない。否定しないとバランスとれないもん。

だから、いつ否定してもされてもいいように、代わりに肯定できるされるものをもっておこう。

ばあちゃんは代わりをたくさんもってるんだろうな。

だから捨てられるのかな。

処分って書いてあるし。廃棄じゃないんだな〜

処分とは、捨てたり売ったり誰かにあげる等して手放す事を言い、廃棄とは不要になった物を捨ててしまう事である。

でも代わりなんてなくて、否定できないものはあるから。そのときは忘れるか、ずっと大切にもっておくしかないんだろうな。

 

追記

家族で写真を飾るのは、ばあちゃんだけだ。

私は、写真に残すことの良さがよくわからなかった。

むしろ残さないで〜という感じで、撮るのも見るのも飾るのも、関心がもてなかった。

だけど、「そこにある(残る)」ことで肯定だと感じる、そういう写真の良さに気づいた。

「モノは見せかけで、コトが本質」ではない。

形にする、目に見える、そこにある、ということは、素晴らしいことなのだと、ばあちゃんの部屋を思い返して学んだ。

なので私も、このブログを残す。