さっき、ばあちゃんからこんな連絡が。
鉢
モノは壊れる。
思い出があると寂しくなる。だれかと繋がっていたモノなら余計悲しく感じる。
けど、捨てても消えるわけじゃない気がする。
けど、壊れたことは悲しい。
美しいものは華やかさの中に哀愁があると言う。
思い出(コト)って美化されるし、壊れるんじゃなくて忘れる。
そう考えると、モノは壊れるから、モノの方が美しいのかなって思った。
それとも、思い出の中の哀愁は変わらないものなのかな。
美しいものはモノとして捉えている。気がする。
美化ってあれか。モノとして捉えるってことか。
ちなみに、美化しないとやっていけないと思います。
美化とはなにか、成長なのか。
青春との対比だ。
ばあちゃん
ばあちゃんはものを大切にしている人だ。
お母さんが捨てたフライパンを拾っていた。自分は雑に扱うからちょうどいいって。
私の小学生の時の資料集も拾っていた。もってるよって見せられるけど、読んでいるところは見たことない。けど、もっている。
勿体無い精神、とは違う。必要だからもっていて、決してケチな人じゃない。
誰かに繋がるようなものなら、日付を書いて取っておく人だ。写真に日付があるように。ばあちゃんの部屋は、ばあちゃんと、いろんな人の痕跡みたいなのを感じる。
時間を止めてあるようで、流れていることもまた実感する部屋。
ばあちゃんが、私たちと一緒に過ごしている。
「ばあちゃんがいるからあなたがいるのよ〜」って言われた。そうだ。
ばあちゃんの時間の中で私は誕生した。同時に私の時間軸が生まれた。私にとって、最初から、ばあちゃんはいる。
そうやって繋がって、続いていくんだ〜って思った。
何事も、きっとそうだと思った。愛が世界をまわらせる。
人生哲学はなにって聞いたら、繋がりって言ってた。一人じゃ生きていけないからって。周りを恨まず、笑っとけ、と。笑いにもいろいろあるような。
話を戻す。
でも、壊れたら捨てるのが早い。いつも事後報告だった。捨てていいんだけど、早いな!って思う。
なんで、早いんだろう。なんで、「もう捨てたんかい」って思うんだろう。
モノはモノとして機能しなくなる日が来る。
人だってモノだ。(実体って意味で。人って実体だっけ?)
離れている間に壊れるのは嫌だな〜
すごい嫌だけど、でも、存在はなくならないのだ。
壊れる前には戻れないから、すごい嫌だけどね。
だから大切にしたい。
大切にするってなに、使い続けるってこと?
使うってなに、活かすってこと?
活かすってなに、居場所があるってこと?
居場所があるってなに、存在を許すってこと?
お父さんが言ってた、ウイルスだって居場所を求めてるって。
ばあちゃんは、必要だと認めてくれる人なんだなあ〜
大切とは正反対なのに、大切にもってるってこともあるよね。
忘れたい!って言いながらもってる、みたいな。
あの鉢が目に止まるといつも同じ話をしてた。「これはあなたが朝顔育てた鉢」って。
鉢に大きく名前が書いてあることで、そのことを証明している。担任の先生が書いた、その字を見ている。
自立とはたくさんの依存先をもつことらしい。
依存先がひとつ減ったような気持ち。
忘れるっていい。私は何も否定しなくて済む。
じゃあ、捨てることは否定なの?
否定かもしれない。否定しないとバランスとれないもん。
だから、いつ否定してもされてもいいように、代わりに肯定できるされるものをもっておこう。
ばあちゃんは代わりをたくさんもってるんだろうな。
だから捨てられるのかな。
処分って書いてあるし。廃棄じゃないんだな〜
でも代わりなんてなくて、否定できないものはあるから。そのときは忘れるか、ずっと大切にもっておくしかないんだろうな。
追記
家族で写真を飾るのは、ばあちゃんだけだ。
私は、写真に残すことの良さがよくわからなかった。
むしろ残さないで〜という感じで、撮るのも見るのも飾るのも、関心がもてなかった。
だけど、「そこにある(残る)」ことで肯定だと感じる、そういう写真の良さに気づいた。
「モノは見せかけで、コトが本質」ではない。
形にする、目に見える、そこにある、ということは、素晴らしいことなのだと、ばあちゃんの部屋を思い返して学んだ。
なので私も、このブログを残す。