す56

自由帳

古典とは?2

先ほど最後のレポートを終えました〜。意外にも、レポートに取り組むのすごく面白かったです。毎週の課題とは違う感覚でした。私は割と1科目ずつやってたんですけど、時間つくって毎日やっていくうちに、どんどんわかっていく感じがあって。この前期でやっと楽しめた感があります。レポートじゃないけど60分内でやってるときとはそれが違ったなって思って、もとの形式にもどるのが寂しいと思いました。最後の倫理学とか最高だった・・・。ブログやってたからか自分の考えを書くことに抵抗がなかったし、終わってみて書くって面白いし、気付いたら学んでるし、つよいな!と思いました。

 

今回のブログは、ゼミでやった古典の続きです。今回は源氏物語の続編を考えてみようというワークでした。時間が立ってしまったため、要所要所ゼミ生のブログを引用・参考にさせていただきます。

 

源氏物語ってどんなはなし?

源氏物語は3部構成。

第1部:光源氏の誕生から天皇になるまで

第2部:光源氏が死ぬまで

第3部:光源氏の子孫たちのストーリー

となっています。今回の中心となったのは最後の第3部。この第3部は、消化不良な面があり、すっきりしない結末を迎えます。

くんは浮舟(うきふね)という名の美女と出会い、いい感じになりますが、薫くんの親友でありライバルの匂宮(におうみや)もまた、浮舟さんと良い感じになります。浮舟さんは”やばい、バレたらどうしよう”ってパニックになって、ついには自ら命を絶とうとしますが、お坊さんによって助けられます。そこで浮舟さんは、”もう元の生活には戻れない…”と出家。 薫くんの耳には、浮舟が自殺をしたという噂が入ってきますが、ある日、浮舟を助けたお坊さんから「浮舟はまだ生きてるいる」ということを知ります。 そうと知った薫くんが弟を通じて手紙を出しますが、浮舟さんの意志は強く、薫くんの弟にすら会おうとしませんでした。 −完−

このことから、第3部作は書かなくってもよかったんじゃないかという意見もあったそうです。

 

▷なんで紫式部は第3部書いたんだろう?

ここで先生から、なんで紫式部はこのすっきりしない第3部を書いたんだろう?と問いが投げられました。私は、人気だったため続編が求められたから書いたのかなと思いました。それはなぜかと考えると、当時の文学ってすごい多くの人に嗜まれていたし、力も持っていたしで、しかも源氏物語ってその代表みたいなものじゃないですか。ただでさえすごい人気作で、しかも終盤なんて期待特大ですよね。みんなが納得する結末ってなかなかないと思うし、しかもこんなどろどろの恋愛ものだともっとない、っていうかないんじゃない?と思いました。でも作品は大きな力をもっているから、紫式部にはいろんなプレッシャーがかかっていたと思いました。だから、曖昧な感じになって発表したのかなと思いました。だけど発表したのすごいと思います。

他のゼミ生では、光源氏がいない世界を書きたかったのではないか説、モヤモヤを残し後世の人に考えて欲しかったのではないか説、本当は第4部があったのではないか説、特定の誰かに向けたものだったのではない説がありました。

先生が紹介してくださったのは、紫式部が自分自身と重ねたんじゃないか説です。紫式部は恵まれていたとはいえず、あまり救われない人生だったみたいです。そんな紫式部の人生と浮舟の描写がどこか似ているところがあり、紫式部は浮舟を通じて自分を見つめていたんじゃないかと言われているそうです。浮舟って自分に向けた和歌がすごく多かったそうです。(まさに硯に向かってた)

 一方で、この第3部だけ別の人が書いたんじゃないかという説もあるそうです。なんと。

 

源氏物語の続編を考えてみよう

ここで先生から、第3部の続き、あなたならどんな物語にしますか?と問いが投げられ、3人グループに分かれました。早速考えることに。

結果として、「薫は浮舟に憧れを持ち続けたけれど、結ばれない」といったものにしました。

背景には、先生がグループに入ってくださっていたときにした質問があります。

  1. 薫は天皇?の娘さんと結婚してて、玉の輿?(言いたい言葉があるけど出てこない、こういうことなんて言うっけ・・・)らしい。
  2. 源氏物語において悲恋物って珍しい。光源氏は基本的にずっと恋が実っていた。(朝顔以外?)

それと、紫式部が浮舟を自分と重ねていたということから、紫式部の結婚歴を調べてみると、20代で親子ほど歳の離れた人と結婚しており、結婚期間は2年(死別)。その後再婚はなかったみたいです。つまり、紫式部は長い間独身でした。

薫は光源氏みたいに禁じられた恋に燃えるみたいなイメージでもなく、めちゃいいとこのお嬢さんと結婚してるし、悲恋物珍しいなら結ばれていないことに意味があるかもやし、紫式部も人生において晴れて結婚!みたいな結ばれ方してないし、結ばれないかなぁ・・・となりました。ただ完全に妄想ですが、当時において女性が男性に流されないみたいな物語(考え)って珍しいんじゃない?と思いました。当時って女性差別的な考えが今より前提としてもっとあったと思うので、その中で、女性側から断ち切るという、そうじゃないものを書くっていうのは、なんかいいんじゃないかなぁと思いました。うまく言えないんですけど。何をもって恋が実ったとか結ばれたとかいうのか、難しいですね。

 

〈他のグループの続編〉

グループ1:薫は浮舟への思いも尽きなくて、浮舟も現世への未練が尽きなかったところに、浮舟の住んでいた場所でボヤ騒ぎが起きる。何とか逃げ出したが、力づきて倒れているところに薫がボヤ騒ぎ聞きつけおとずれる。互いに思いを伝えるが、浮舟は亡くなってしまい、姉や浮舟など大切な存在をなくした薫は光源氏のように女性を渡り歩くようになってしまう。

 

グループ2:浮舟が強い意志から薫に会えず(しかし気持ちは薫にあり)、もやもやと手習いをしていたところ、夢に小野〇町的な人物が登場。現代的な恋愛価値観を浮舟にさとし、浮舟は薫に会う事を決断。そこにちょうど弟再来。浮舟はこれは最後のチャンスだと感じ、薫にお返事を書いた。すると、薫が浮舟に会いに行き、2人はお互いの気持ちを再確認し合う。

 

グループ3:主家先の使用人の兼力(かねちか)が浮舟に思いを寄せてしまう。返歌をがもらえない薫は浮舟に和歌を送りまくってストーカっぽくなる。使用人である兼力はその和歌を捨て続け、薫を浮舟に近づけないようにする。兼力は出家している浮舟に思いを伝えることはできず、3人はすれ違い続ける。

 

グループ4:薫と浮舟の駆け落ち 

 

 ▷あらためて、古典は必要?私たちにとって古典って?

最後に、考えてみてと、古典の先生から投げられた問いです。 

古典って必要?

必要かどうかと言われると、必要な人生と必要でない人生があると思います。必要な人生の人って、多分最初から必要だったわけじゃなくて、どこからか必要な人生に変わってると思います。先生はなにかの漫画にハマって、大学で研究の道を選ばれたと言ってらしたような・・・。例えばそうで、先生にとって古典は必要だとして、どこではじめて古典と出会われたかちょっとわかりませんが、古典が必要な人生になったタイミングとは違うんじゃないかなと思います。つまり、どこかで古典に触れてその魅力に気づかれて、また触れてのくりかえしで、踏み込まなければわからない魅力まで気づかれたんじゃないかなと。だから、どの程度の魅力であれ、まず気づくか気づかないかだと思います。気づいた人はその程度によって、古典そのものに意味づけがされていくのかなと思いました。だから、気づかなくても困らない人もいるだろうし、気づいたから世界が広くなる人もいるだろうなという感じです。人間は、何でもかんでも知ることはできないから、そこはもう取捨選択です。だけど、どこかで差は出ると思います。単純に知っていると、選べることは増えます。でもこれって、その分、別のことを知ることができないってことだから、古典は、誰かにとって、人生において必要だと言えるものであるってことは、必ずそうでない人もいるっていう考えです。逆で考えると、存在が割としっかりあるものは、それが人生において必要だと言う人がどこかにいるんじゃないかと思います。だから、古典は必要だと思いました。

 

私たちにとって古典って?

これは感想として、私にとって古典ってなんだろうと考えてみます。

言い方が難しいけれど、どれだけ知っているかという程度に合わせて、それだけ道具になると思います。使い方がわからなければ使えないし、詳しければ応用できるといった感じです。それは何にでも言えると思うんですけど、古典って応用すれば、自分の経験談とは違うところで、誰かのことを考えることができます。これって教養に共通する?と思ったんですけど、あらためて考えるとすごい道具ですよね。教養科目のレポート書いてて気づいたんですけど、なるほど〜〜って思いました。ドラえもんの道具みたい。でも、いいこと学んでも忘れると道具じゃなくなってしまうから、思い出せるように書き残しておこうって思いました。