今回のブログはゼミで学んでいる古典がテーマです。工業大学で古典を教える先生から学びます。
まず、享受史の話がありました。古典って何をどうやって研究しているのか知らなかったのですが、どのように読み継がれてきたかや読み継がれるうちにどう変化してきたか(どう享受されてきたか)を研究しているそうです。どう引き継がれてきたかって気になりますもんね。作品単体の理解(作り手へのアプローチ)だけが古典を学ぶということではないというのはメウロコでした。そう考えると、何にしても受け手がどう感じたか(どんな体験をしたか)って考えられてる気がします。そして、作品を読んでいてよくわからない文があると、解釈の仕方として同じ表現を探して引用しているのではないかと考えるそうです。同じ人の他の作品から探したり、他の人の作品からも探したりして、その文やその文の表す行為が、作者やその時代の人たちにとってどのように意味づけがされていたのか考察するそうです。私たちがゲームや映画を考察するときもそうだなと思いました。今はつくった人のインタビューとかクリアした人の考察のブログとかたくさんあって、ネットですぐ検索できるので便利です。たまにリンク切れしてたりするとふぁ〜とかなりますけど、古典の研究だとそんなの比じゃなんだろうなと思いました。でも考察の仕方ってあまり変わらないのかなとよく知らないけど思いました。
次に、古典の先生に聞く古典を学ぶ理由とは?
- 純粋に楽しいから。好きだから。ストーリーの楽しさ。昔の人と繋がる感覚。
- 日本のアイデンティティとして。所属する文化の古典や歴史を学ぶ=日本のアイデンティティ
- 現在を逆照射する。近代を相対化できる装置。今の「常識」を疑う。古典の世界に触れることで、今の「あたりまえ」が「あたりまえ」でないことに気づく。
今回のような教養を学ぶ上で重要視するのは3番で、昔(過去?)を知ることで今と昔を対比させることができ、今の常識が揺さぶれると学びました。
古典に「参加する」ということとは?
- ストーリーの引用・変奏
- (1を前提として)書写者が本文に書き足す
だそうです。
本文の横に小さい文字で書き足されてます。こんな感じで読んだ人がどんどん書き足していって読み継がれていくそうです。内容を変える書き足しもするみたいで、それが物語が変奏していく背景みたいです。当時、文学(文芸?)が多くの人に嗜まれていたのもこのような楽しみ方をしていたのなら納得です。
先生からの問いは「物語を引用・変奏しながら表現したい内容とは何?具体例で考えてみよう」でした。
難しいですがMOTHER3というゲームのラストバトルのシーンで考えてみます。いろいろあって主人公のリュカと双子の兄のクラウスが闘うんですけど、そこで亡くなったお母さんから「たたかいをやめて」と声が聞こえてきます。クラウスはいろいろあって改造人間にされてて記憶がありません。だから敵の立場になって闘うことになるんですけど、お母さんがリュカに「あなたからさきにたたかいをやめて」と言います。それで、この後話は進んでいくんですけど、取り上げるのはお母さんが言った「あなたからさきにたたかいをやめて」の部分です。
調べていると、このゲームをつくった糸井さんの「まず救うべきは善人より、悪人からなんです」というの言葉がありました。それは親鸞の「悪人正機」という考え方ということがわかり、悪人正機というタイトルの対談本も出版されてました。
悪人正機の現代語訳
善人ですら極楽浄土へ行くことができるのだから、まして悪人が行けるのは当然のことである。しかし世間の人は常にその反対のことをいう。悪人ですら極楽へ行くことができるのだから、まして善人が行くのは当然ではないか。
どういうこと?リュカが善人で、クラウスが悪人ってこと?
この思想の根底には親鸞の「他力本願」の教えがあります。
親鸞は、煩悩にまみれた人間や無常の世界はすべてそらごとで、そこに真実はなく、ただ念仏のみが真実であるといい、また、傲慢な思いに気づかずに善を励む人を阿弥陀の本願ではないといい、人々の常識を覆しました。
だそうです。
親鸞は悪人正機における悪人を(煩悩にまみれ、永遠に苦しみから逃れられない)人間と捉え、善人を(人間の中で)阿弥陀仏に全てを頼らず、念仏を唱える自分の力で救われようとしている人と捉えていて、すごく噛み砕くと、自分で泳げずに溺れている人からまず救うということみたいです。
ここまで来たけど「物語」の引き継ぎではないなこれ・・・。しかもなんかすごいとこから引っ張ってきてる・・・という感じですが、引用・変奏しながら表現したい内容とは何か考えてみます。糸井さんがこの思想をどう思っているのかわからないけれど、シンプルに引き継いでいって存在していてほしい思想なんじゃないかなと思いました。この思想が世間一般とは反対の考え方だから尚更そう思ったのかもしれません。ですが、取り上げたシーンに悪人正機の考え方を当てはめると自然に考えられる気がします。いろんな人がいますけど、人って言い訳があるし言い訳をすると思います。そして、場合によりけりですけど個人的な話とかだったらまぁ許すと思います。なんかそんな感じかなぁと思いました。なんかすごく嫌な人がいたとしても、その人の背景とか知ったらしょうがないのかもしれないって思う(思ってしまう)ことあると思うんですけど、そんな感じかなぁと思いました。安易に否定だけをすることができなくなるというか。悪人正機こそ正しい!と言いたいわけではなく、こんな考え方もあるよ、あってもいいんじゃない?とか、こんな考え方もできるんじゃない?みたいな感じで引用されてるのかなと思いました。自分の中の常識と非常識が揺さぶられる感じです。その常識を揺さぶられずにそのまま持ってて大丈夫?こういう要素もあるんじゃない?みたいな。引用されるってことは過去に誰かが考えていたわけで、それを引っ張ってくるっていうことなので、シンプルに過去から今の人たちに向けて引っ張ってきたように見えました。自分の想いもすみっこにのせながら、もともとの対象とは違う人に伝える感じです。対象を広げてると言ってもいいかもしれません。リツイートみたいですね。なんだかまさに古典だ、といった感じがします。だけど、やっぱり人間がやってることってずっとこういうことなんだと思います。