す56

自由帳

古典とは?2

先ほど最後のレポートを終えました〜。意外にも、レポートに取り組むのすごく面白かったです。毎週の課題とは違う感覚でした。私は割と1科目ずつやってたんですけど、時間つくって毎日やっていくうちに、どんどんわかっていく感じがあって。この前期でやっと楽しめた感があります。レポートじゃないけど60分内でやってるときとはそれが違ったなって思って、もとの形式にもどるのが寂しいと思いました。最後の倫理学とか最高だった・・・。ブログやってたからか自分の考えを書くことに抵抗がなかったし、終わってみて書くって面白いし、気付いたら学んでるし、つよいな!と思いました。

 

今回のブログは、ゼミでやった古典の続きです。今回は源氏物語の続編を考えてみようというワークでした。時間が立ってしまったため、要所要所ゼミ生のブログを引用・参考にさせていただきます。

 

源氏物語ってどんなはなし?

源氏物語は3部構成。

第1部:光源氏の誕生から天皇になるまで

第2部:光源氏が死ぬまで

第3部:光源氏の子孫たちのストーリー

となっています。今回の中心となったのは最後の第3部。この第3部は、消化不良な面があり、すっきりしない結末を迎えます。

くんは浮舟(うきふね)という名の美女と出会い、いい感じになりますが、薫くんの親友でありライバルの匂宮(におうみや)もまた、浮舟さんと良い感じになります。浮舟さんは”やばい、バレたらどうしよう”ってパニックになって、ついには自ら命を絶とうとしますが、お坊さんによって助けられます。そこで浮舟さんは、”もう元の生活には戻れない…”と出家。 薫くんの耳には、浮舟が自殺をしたという噂が入ってきますが、ある日、浮舟を助けたお坊さんから「浮舟はまだ生きてるいる」ということを知ります。 そうと知った薫くんが弟を通じて手紙を出しますが、浮舟さんの意志は強く、薫くんの弟にすら会おうとしませんでした。 −完−

このことから、第3部作は書かなくってもよかったんじゃないかという意見もあったそうです。

 

▷なんで紫式部は第3部書いたんだろう?

ここで先生から、なんで紫式部はこのすっきりしない第3部を書いたんだろう?と問いが投げられました。私は、人気だったため続編が求められたから書いたのかなと思いました。それはなぜかと考えると、当時の文学ってすごい多くの人に嗜まれていたし、力も持っていたしで、しかも源氏物語ってその代表みたいなものじゃないですか。ただでさえすごい人気作で、しかも終盤なんて期待特大ですよね。みんなが納得する結末ってなかなかないと思うし、しかもこんなどろどろの恋愛ものだともっとない、っていうかないんじゃない?と思いました。でも作品は大きな力をもっているから、紫式部にはいろんなプレッシャーがかかっていたと思いました。だから、曖昧な感じになって発表したのかなと思いました。だけど発表したのすごいと思います。

他のゼミ生では、光源氏がいない世界を書きたかったのではないか説、モヤモヤを残し後世の人に考えて欲しかったのではないか説、本当は第4部があったのではないか説、特定の誰かに向けたものだったのではない説がありました。

先生が紹介してくださったのは、紫式部が自分自身と重ねたんじゃないか説です。紫式部は恵まれていたとはいえず、あまり救われない人生だったみたいです。そんな紫式部の人生と浮舟の描写がどこか似ているところがあり、紫式部は浮舟を通じて自分を見つめていたんじゃないかと言われているそうです。浮舟って自分に向けた和歌がすごく多かったそうです。(まさに硯に向かってた)

 一方で、この第3部だけ別の人が書いたんじゃないかという説もあるそうです。なんと。

 

源氏物語の続編を考えてみよう

ここで先生から、第3部の続き、あなたならどんな物語にしますか?と問いが投げられ、3人グループに分かれました。早速考えることに。

結果として、「薫は浮舟に憧れを持ち続けたけれど、結ばれない」といったものにしました。

背景には、先生がグループに入ってくださっていたときにした質問があります。

  1. 薫は天皇?の娘さんと結婚してて、玉の輿?(言いたい言葉があるけど出てこない、こういうことなんて言うっけ・・・)らしい。
  2. 源氏物語において悲恋物って珍しい。光源氏は基本的にずっと恋が実っていた。(朝顔以外?)

それと、紫式部が浮舟を自分と重ねていたということから、紫式部の結婚歴を調べてみると、20代で親子ほど歳の離れた人と結婚しており、結婚期間は2年(死別)。その後再婚はなかったみたいです。つまり、紫式部は長い間独身でした。

薫は光源氏みたいに禁じられた恋に燃えるみたいなイメージでもなく、めちゃいいとこのお嬢さんと結婚してるし、悲恋物珍しいなら結ばれていないことに意味があるかもやし、紫式部も人生において晴れて結婚!みたいな結ばれ方してないし、結ばれないかなぁ・・・となりました。ただ完全に妄想ですが、当時において女性が男性に流されないみたいな物語(考え)って珍しいんじゃない?と思いました。当時って女性差別的な考えが今より前提としてもっとあったと思うので、その中で、女性側から断ち切るという、そうじゃないものを書くっていうのは、なんかいいんじゃないかなぁと思いました。うまく言えないんですけど。何をもって恋が実ったとか結ばれたとかいうのか、難しいですね。

 

〈他のグループの続編〉

グループ1:薫は浮舟への思いも尽きなくて、浮舟も現世への未練が尽きなかったところに、浮舟の住んでいた場所でボヤ騒ぎが起きる。何とか逃げ出したが、力づきて倒れているところに薫がボヤ騒ぎ聞きつけおとずれる。互いに思いを伝えるが、浮舟は亡くなってしまい、姉や浮舟など大切な存在をなくした薫は光源氏のように女性を渡り歩くようになってしまう。

 

グループ2:浮舟が強い意志から薫に会えず(しかし気持ちは薫にあり)、もやもやと手習いをしていたところ、夢に小野〇町的な人物が登場。現代的な恋愛価値観を浮舟にさとし、浮舟は薫に会う事を決断。そこにちょうど弟再来。浮舟はこれは最後のチャンスだと感じ、薫にお返事を書いた。すると、薫が浮舟に会いに行き、2人はお互いの気持ちを再確認し合う。

 

グループ3:主家先の使用人の兼力(かねちか)が浮舟に思いを寄せてしまう。返歌をがもらえない薫は浮舟に和歌を送りまくってストーカっぽくなる。使用人である兼力はその和歌を捨て続け、薫を浮舟に近づけないようにする。兼力は出家している浮舟に思いを伝えることはできず、3人はすれ違い続ける。

 

グループ4:薫と浮舟の駆け落ち 

 

 ▷あらためて、古典は必要?私たちにとって古典って?

最後に、考えてみてと、古典の先生から投げられた問いです。 

古典って必要?

必要かどうかと言われると、必要な人生と必要でない人生があると思います。必要な人生の人って、多分最初から必要だったわけじゃなくて、どこからか必要な人生に変わってると思います。先生はなにかの漫画にハマって、大学で研究の道を選ばれたと言ってらしたような・・・。例えばそうで、先生にとって古典は必要だとして、どこではじめて古典と出会われたかちょっとわかりませんが、古典が必要な人生になったタイミングとは違うんじゃないかなと思います。つまり、どこかで古典に触れてその魅力に気づかれて、また触れてのくりかえしで、踏み込まなければわからない魅力まで気づかれたんじゃないかなと。だから、どの程度の魅力であれ、まず気づくか気づかないかだと思います。気づいた人はその程度によって、古典そのものに意味づけがされていくのかなと思いました。だから、気づかなくても困らない人もいるだろうし、気づいたから世界が広くなる人もいるだろうなという感じです。人間は、何でもかんでも知ることはできないから、そこはもう取捨選択です。だけど、どこかで差は出ると思います。単純に知っていると、選べることは増えます。でもこれって、その分、別のことを知ることができないってことだから、古典は、誰かにとって、人生において必要だと言えるものであるってことは、必ずそうでない人もいるっていう考えです。逆で考えると、存在が割としっかりあるものは、それが人生において必要だと言う人がどこかにいるんじゃないかと思います。だから、古典は必要だと思いました。

 

私たちにとって古典って?

これは感想として、私にとって古典ってなんだろうと考えてみます。

言い方が難しいけれど、どれだけ知っているかという程度に合わせて、それだけ道具になると思います。使い方がわからなければ使えないし、詳しければ応用できるといった感じです。それは何にでも言えると思うんですけど、古典って応用すれば、自分の経験談とは違うところで、誰かのことを考えることができます。これって教養に共通する?と思ったんですけど、あらためて考えるとすごい道具ですよね。教養科目のレポート書いてて気づいたんですけど、なるほど〜〜って思いました。ドラえもんの道具みたい。でも、いいこと学んでも忘れると道具じゃなくなってしまうから、思い出せるように書き残しておこうって思いました。

古典とは?

今回のブログはゼミで学んでいる古典がテーマです。工業大学で古典を教える先生から学びます。

 

まず、享受史の話がありました。古典って何をどうやって研究しているのか知らなかったのですが、どのように読み継がれてきたかや読み継がれるうちにどう変化してきたか(どう享受されてきたか)を研究しているそうです。どう引き継がれてきたかって気になりますもんね。作品単体の理解(作り手へのアプローチ)だけが古典を学ぶということではないというのはメウロコでした。そう考えると、何にしても受け手がどう感じたか(どんな体験をしたか)って考えられてる気がします。そして、作品を読んでいてよくわからない文があると、解釈の仕方として同じ表現を探して引用しているのではないかと考えるそうです。同じ人の他の作品から探したり、他の人の作品からも探したりして、その文やその文の表す行為が、作者やその時代の人たちにとってどのように意味づけがされていたのか考察するそうです。私たちがゲームや映画を考察するときもそうだなと思いました。今はつくった人のインタビューとかクリアした人の考察のブログとかたくさんあって、ネットですぐ検索できるので便利です。たまにリンク切れしてたりするとふぁ〜とかなりますけど、古典の研究だとそんなの比じゃなんだろうなと思いました。でも考察の仕方ってあまり変わらないのかなとよく知らないけど思いました。

 

次に、古典の先生に聞く古典を学ぶ理由とは?

  1. 純粋に楽しいから。好きだから。ストーリーの楽しさ。昔の人と繋がる感覚。
  2. 日本のアイデンティティとして。所属する文化の古典や歴史を学ぶ=日本のアイデンティティ
  3. 現在を逆照射する。近代を相対化できる装置。今の「常識」を疑う。古典の世界に触れることで、今の「あたりまえ」が「あたりまえ」でないことに気づく。

今回のような教養を学ぶ上で重要視するのは3番で、昔(過去?)を知ることで今と昔を対比させることができ、今の常識が揺さぶれると学びました。

 

古典に「参加する」ということとは?

  1. ストーリーの引用・変奏
  2. (1を前提として)書写者が本文に書き足す

だそうです。

f:id:Shinkansen:20200709232921p:plain

本文の横に小さい文字で書き足されてます。こんな感じで読んだ人がどんどん書き足していって読み継がれていくそうです。内容を変える書き足しもするみたいで、それが物語が変奏していく背景みたいです。当時、文学(文芸?)が多くの人に嗜まれていたのもこのような楽しみ方をしていたのなら納得です。

 

先生からの問いは「物語を引用・変奏しながら表現したい内容とは何?具体例で考えてみよう」でした。

難しいですがMOTHER3というゲームのラストバトルのシーンで考えてみます。いろいろあって主人公のリュカと双子の兄のクラウスが闘うんですけど、そこで亡くなったお母さんから「たたかいをやめて」と声が聞こえてきます。クラウスはいろいろあって改造人間にされてて記憶がありません。だから敵の立場になって闘うことになるんですけど、お母さんがリュカに「あなたからさきにたたかいをやめて」と言います。それで、この後話は進んでいくんですけど、取り上げるのはお母さんが言った「あなたからさきにたたかいをやめて」の部分です。

調べていると、このゲームをつくった糸井さんの「まず救うべきは善人より、悪人からなんです」というの言葉がありました。それは親鸞の「悪人正機」という考え方ということがわかり、悪人正機というタイトルの対談本も出版されてました。

悪人正機の現代語訳

善人ですら極楽浄土へ行くことができるのだから、まして悪人が行けるのは当然のことである。しかし世間の人は常にその反対のことをいう。悪人ですら極楽へ行くことができるのだから、まして善人が行くのは当然ではないか。

どういうこと?リュカが善人で、クラウスが悪人ってこと?

この思想の根底には親鸞の「他力本願」の教えがあります。

親鸞は、煩悩にまみれた人間や無常の世界はすべてそらごとで、そこに真実はなく、ただ念仏のみが真実であるといい、また、傲慢な思いに気づかずに善を励む人を阿弥陀の本願ではないといい、人々の常識を覆しました。

だそうです。

親鸞悪人正機における悪人を(煩悩にまみれ、永遠に苦しみから逃れられない人間と捉え、善人を(人間の中で)阿弥陀仏に全てを頼らず、念仏を唱える自分の力で救われようとしている人と捉えていて、すごく噛み砕くと、自分で泳げずに溺れている人からまず救うということみたいです。

ここまで来たけど「物語」の引き継ぎではないなこれ・・・。しかもなんかすごいとこから引っ張ってきてる・・・という感じですが、引用・変奏しながら表現したい内容とは何か考えてみます。糸井さんがこの思想をどう思っているのかわからないけれど、シンプルに引き継いでいって存在していてほしい思想なんじゃないかなと思いました。この思想が世間一般とは反対の考え方だから尚更そう思ったのかもしれません。ですが、取り上げたシーンに悪人正機の考え方を当てはめると自然に考えられる気がします。いろんな人がいますけど、人って言い訳があるし言い訳をすると思います。そして、場合によりけりですけど個人的な話とかだったらまぁ許すと思います。なんかそんな感じかなぁと思いました。なんかすごく嫌な人がいたとしても、その人の背景とか知ったらしょうがないのかもしれないって思う(思ってしまう)ことあると思うんですけど、そんな感じかなぁと思いました。安易に否定だけをすることができなくなるというか。悪人正機こそ正しい!と言いたいわけではなく、こんな考え方もあるよ、あってもいいんじゃない?とか、こんな考え方もできるんじゃない?みたいな感じで引用されてるのかなと思いました。自分の中の常識と非常識が揺さぶられる感じです。その常識を揺さぶられずにそのまま持ってて大丈夫?こういう要素もあるんじゃない?みたいな。引用されるってことは過去に誰かが考えていたわけで、それを引っ張ってくるっていうことなので、シンプルに過去から今の人たちに向けて引っ張ってきたように見えました。自分の想いもすみっこにのせながら、もともとの対象とは違う人に伝える感じです。対象を広げてると言ってもいいかもしれません。リツイートみたいですね。なんだかまさに古典だ、といった感じがします。だけど、やっぱり人間がやってることってずっとこういうことなんだと思います。

差別感情の哲学2

 今回のブログで考える問いはこれです。

f:id:Shinkansen:20200611124548p:plain

  これは哲学の先生から提示された問いで、同時にこんなことも教えてもらいました。

f:id:Shinkansen:20200611124647p:plain


 私は問いがうまれてそれを考えていると別の問いがうまれてきて、そもそもの問いの答えが出せてなかったので、答えを出すことを意識しないとなと思いました。

 

1. なぜわれわれは「差別している」と言われたくないのか

  差別と一言でいってもどんな差別なのかわからないので、まず、悪意によって行われる差別と、人間の本能的にあるような悪意から行われるものではなく、知らないものを見たときに感じる恐怖に基づく排除や差をつけたいという欲求から来たランクづけ、それと、悪意というよりは戦略的というかなにか別の目論見があって行われる差別とは分けて考えてみます。

 そこで思ったのが、差別という行為自体には善悪はないのではないかということです。悪意を持った差別というのは、自分の中の攻撃性を差別の対象となっている人に向けることで、発散しているのではないかと思います。先生もおっしゃっていたように、差別の対象となっている人(つまり、社会的に弱い立場を持っている人)は自分以外の他の誰かからも虐げられているだろうと思って、攻撃の標的にするハードルが下がるのだろうと思いました。それは、加害者側が他にも差別感情を持つ集団を背後に察知しているからです。つまり、自分一人の感情では差別はしないのではないかと考えました。なぜなら、相手がマイノリティだからという理由以上に自分の攻撃性をぶつけていることがわかっていて、わかっているから集団じゃないとできないのではないのでしょうか。差別をすることは上下関係を作ることです。差別というものを利用して、排除したりランク付したりして、自分の攻撃性を発散し(相手を傷つけて)、自分を満たすことが長期的・客観的には恥ずかしいことだとわかっているけど短期的刺激につられてやってしまう人が、差別をしても差別をしていると言われたくないのかなと思いました。

 うまく言えないのですが、「差別」「差別感情」という言葉自体には善も悪もなく、それはそういう現状の名前です。だけど、われわれは先程述べた悪意ある差別というものを知っていて、そういう差別をしているという状況もまたわかっているから「差別」という言葉のニュアンスが変わり、自分は良くありたいので差別は良くないことだとわかりやすく言っているのではないかと考えました。差別はだめだ!と言っている人だって、自分を差別をする人間とは違う!と差別をしている人と差をつけるために言っているのです。これだって状況的には差別です。

 ここまで、加害者側のことを考えてきました。その中で被差別者への話がまるででてきません。怖いと思いました。

 

 

2. 差別をしたくない場合、どうすればいいか?あるいはそもそも差別はしてしまっても仕方ないものなのか?だとしたらなぜ世の中では「差別はいけない」と言われているのか

 分解して考えたいと思います。

 

差別をしたくない場合、どうすればいいか?

 悪意のない差別とは、無意識にしてしまうものだと思います。 なので、差別をしないということは難しいかもしれません。悪意ある差別をしたくないと本気で思っていれば、わざわざ傷つけるようなことはしないだろうなとも思いました。でもそうなると、攻撃性をコントロールする必要が出てきます。プリントのAにもあった通り、それをいかに対処するかがその人の価値を決めるのだと思いました。

 私は言葉に丁寧になろうと思いました。人を傷つけるものに必ずしも悪意があるとは限らないとアイスバーグが言っていました。言葉は心に残りやすい上、思い返すごとに感情がうまれるからです。そういう意味では、言葉は受け取る側のものと言えるだろうと思います。だけど、言葉は溢れてくる時があるから、傷つけてしまっていると思います。そのことをわかって、やさしさの基礎をつくるという答えになりました。

 

そもそも差別はしてしまっても仕方のないものなのか?

 無意識だったから仕方がないというのは違う気がします。そう片付けてしまうと、悪意ある差別が増えると思うからです。

 

なぜ「差別はいけない」と言われているのか?

 それが正しいと思っているからだと思います。正しいと思う理由はなんだろうなと思いました。例えば、そういうふうに教育をされたとか社会的常識だとか言われたとして、そこまですんなり差別という難しいもののイメージづけがされているのが不思議だと思いました。何も知らない状況でそう言われたらすんなり入るんでしょうか。きっとわかりやすく差別というものを説明したんだと思います。誰が見ても悪いと思うような情報を渡して、ワンパターンなイメージついたことによって、差別について考えることなく、実際に差別の状況に出会ったときに気づかなかったり、深く考えず便乗したりするのかなと思いました。

 

▷余談

 映画「風と共に去りぬ」が人種差別や偏見を理由に米動画配信サービスでの配信が停止されました。この映画はちょうど1年前くらいに見たことがあって、何回か見たので結構覚えているし、純粋に面白かったです。だけど、情報をそのまま(正確にはそのままではないけれど)受け取っていて、こんな時代だったんだと思ったし、黒人の方がこの映画を見てどう思うかとかは考えなかったです。差別問題はどこまでも広がるんだなと思いました。

差別感情の哲学

 今回のゼミは、中島義道さんの「差別感情の哲学」についてでした。

 配布されたABCDのプリントを読み、めうろこ(なるほどそうだったのか!)すごどう(すごく同意)なついか(どうしてそう言えるのだろう?)はげぱつ(その主張は認めない!)の4つの視点に分けながら、考えを深めるやり方です。

 今回のブログはその感想をよくわからないところをベースにまとめたいと思います。

 

 

A:悪意はひとを鍛え、かつひとを滅ぼす

 Aでは、なついかとすごどうが交互に出てきました。人間の本能として差別がうまれることはわかるけど、その悪意に人生の豊かさがあると人間は捉えるの?という感じです。単純に自分にそんな日が来るのかわからないといった理由でなついかです。特に、この話では悪意による差別を取り上げられているので、人間の葛藤としての話ならまだわかるんですけどどんな思考をイメージしているのかわかりませんでした。われわれは他人に危害を加える存在者というのはすごどうですが、それを中心に社会が回っていると思ったことはありませんでした。人間の行動様式の動機の大部分が攻撃性であるという主張も、保守性からくる攻撃性だと捉えていたので、これだけではなんとも言えないという感じです。なので、友情や恋愛、家族愛を妬み破壊しようという敵がいてこそ、それらは大切な絆というのも外的な攻撃性だけで破壊できるものなのか?という疑問があります。そもそも絆がよくわかりません。例えば、同じ差別感情を持った人が集まってよく悪口を言って盛り上がっていたとして、彼らの間にあるのは絆なんでしょうか。攻撃性が壊しているのは一体なんなんだろうというまとまり方をしました。

 

 

B:快・不快を統制する社会の恐ろしさ

 まず、差別意識は個人の快・不快の延長線上に存在するというところがしっくりこず、ふりかえると「差をつける」と「差別」の違いってなに?となりました。人は差をつけたいという欲求を持って、下位の欲求が満たされれば次第にそんな欲求が出てくると思います。ファッションなんかが例です。差をつけたいという欲求の背景にも、自分を磨きたいという自分に向けての刺激(?)のものと、誰かを引き離したいという他人に向けての刺激(?)のものに別れそうです。何をもって悪意と捉えるかを線引きするというのは、不毛な気がします。そういう意味で、快・不快の発露を統制することは何を指しているのかよくわかりませんでした。

 Bで感じたのは、「正しさ」です。自分の正しさを求めている話に感じました。

 

 

C:帰属意識アイデンティティ

 アイデンティティとは何かという話で、複数のコミュニティーに向けた仮面の中心にある芯としてアイデンティティがあるわけではなく、その仮面そのものがアイデンティティに他ならないという話は、すごどうでした。全くもって同意です。だからこそ、アイデンティティの確立したものの多くは、自分の属している集団を愛しているという前提はいまいちピンときませんでした。アイデンティティの確立ってゴールなの?という感じだし、個人ではなく、集団を愛するってどういうこと?という感じです。ずっと同じ状態の集団であることなどできないからこその疑問です。差別感情を育てる温床は、集団の何を愛している人たちによってうまれるの?という感じです。自分を愛しているんじゃないかと思いました。

 かなり小さいことですが、みな変な顔をするというのも本当に?と思いました。それと、人間は主観的理由を消去することはできないと思いました。価値観は主観的理由で比べるしかないと思ったからです。

 

 

C:家族至上主義

 現代日本では、家族は絶対的に「よきもの」とみなされていると書かれていたが、私はものすごく近い存在とされていると考えました。例えば、何か事件があると、加害者にも被害者にも、その家族は責任のようなものを求められることが多いと感じるからです。言い方が難しいですが、悪意も含めて、社会のさまざまな欲求の出汁にされているようなイメージです。つまり、家族は影響を受けやすい存在でもあり、同時に家族は離れにくい(逃げ方が難しい)存在とも言えるだろうと思います。

 差別の話に戻ると、あなたはすでに(潜在的)加害者なのですとありますが、すごどうで、差別につながる自分の傲慢さを自覚する必要があるとありますが、これがAにあった努力を指すのかという感じで、そうした努力のうちにこそ生きる価値を見つけるべきなのだというのは哲学としてすごどうです。

 

 

D:向上心

 私は、人はよりよい時間の過ごし方を求めていると思っていたので、この考えに少しぶつかったような気がしました。やはり、「よりよい」というものは主観でしかなく、視点を変えることで価値は変わります。差別は、短期的な思考で価値を主観的に測ることからうまれ、瞬時に判断されるのだろうなと思いました。

 意識という言葉が出てきましたが、意識を敵に回すことで意識を変えさせることってできるの?となり、なついかでした。無意識的なことって反射みたいなもの以外にあるのだろうか?とも思いました。

 Dで感じたのは「謙虚さ」で、謙虚であれば人の心を余計に乱さないし、傷つけないのだろうが、それを邪魔するのが攻撃性なのかなと思いました。そしてそうなると、何かを拒むことを攻撃性ととるのもわかる気がしました。

 

 

全体的な自分の考えはまだ見えませんが、少しずつ考えていこうと思います。

暇と退屈

今日のゼミではこんな図を使いました。

f:id:Shinkansen:20200523114518j:image

ゼミ生が選んだのは、②よりの①が1人、②と③が6人ずつくらい、④が5人くらいでした。

①を選んだ人は②に加わって、同じ番号を選んだ人で集まり、なんでそれを選んだかについてなど20分間対話しました。(問1)

その後、②から④の人が全員いるように6人グループをつくり、退屈とは何かについて対話しました。(問2)

 

問1:私は今どこ?なんで?

私は④か③で悩み、③を選びました。

まず、暇ではないを選んだ理由は、私はバイトが自粛期間中休みにならなかったこと(スーパーなのでコロナ期間はむしろ忙しかった)や、KATはオンラインで続いていること、大学やKATのたまっている課題を今コツコツやってることから暇ではないなと思いました。池田さんとの哲学的対話に向けての時間があまり取れないことや、メルカリで買った本がまだ読めてないことも頭に浮かび、暇とは思わないなと、選びました。

退屈か退屈でないで悩んだのは、2週間前くらいまでは退屈だったからです。バイト先忙しいし、オンライン授業身が入らないし、やる気が起きず課題がたまるみたいな感じでした。いわゆる中だるみです。ですが、母親がうちに来て棚をつくったら治りました。振り返るとそれからは憂鬱な気持ちはなくて、毎日の短期的な楽しみや長期的な楽しみがあったりして、課題を紙に張り出したらひとつずつコツコツやることができたり、本来の考える時間も戻ってきたと気づいたので、退屈に過ごしてないなと思い、選びました。そう考えると、達成感大事だなと思いました。

 

問2:退屈ってなに?

私が考える退屈は、何かをやっているときに違うことをしたり、考えるときのことです。例えば、授業中に友達と話したり、スマホを触ったりするのは退屈だからだろうと思います。退屈だと思えば退屈で、手遊びとかしながら違うこと考えるんだと思います。

誰かに「毎日退屈だ〜」と言うと、「退屈なら何かやればいいじゃん」と言われると思います。退屈って、やることあるかもしれないけどやらないのが退屈で、授業中も授業を聞けばいいとか聞かなきゃいけないとわかっているのに、聞かないのが退屈なんですよね。じゃあ一体何に退屈なんだろうと考えると、変わらない時間の過ぎ方で、それって刺激かなと思んですけど、それってスマホで補えるの?というのが疑問です。情報が頭に入ってくることで補われるのかな。脳は本能的に刺激がある方へ向かうそうですが、刺激の大きさを無意識に比べてるんですかね。基準があったらおもしろいです。

そう考えると、退屈って興味が湧かないとか、集中できないみたいなのと近いような気もします。人は忘れることで集中できます。忘却は整理の入り口であり、整理できる記憶は7つくらいなので、気がかりなことが忘れられず、雑念がたまっていたら集中できないことになります。言語化するとそりゃそうだろってことですね。雑念ってモヤモヤのことかな。

 

問3:暇ってなに?

これはゼミ終了後の課題です。

まず、ゼミ生と対話してでてきた面白かった話や、それにつなげての考えを書きます。

 
一つ目のグループでの話

私は忙しいとき暇って言いたくなったり、暇な気持ちになりたくなるんですが、そもそも暇でありたくないという人もいて、同じ③でも休むの感覚が違うんだなと思いました。これって感覚の話で、実際の忙しさの話とは違うように思えてきます。話を聞いていると、無駄な時間を過ごしたくないのかなと思いました。先日、父親と0時から5時間電話したんですけど、それは暇だからできたことです。正確には自分がその時間とそれによって影響を受ける時間を空いていると思ったから、時間を気にすることなく話し続けたんだと思います。その時間を埋めるものがそれでありたいとかそれでいいと感じるという感じです。逆も然りで、この時間を過ごしていたいとか。そう思えば、時間って空いてるように思えてきます。まぁいけるでしょ、みたいな。別に今はどうでもいいことだと、他にやることがいっぱいでてきて忙しく思えてきます。お互い暇だと思えば一緒に何かができるんですね。

 

2つ目のグループでの話

何時間空いていれば暇だと思う?これは人によって違うよね。という話です。確かに!面白い!と思いました。例えば、3時間後にバイトがある。それまでの時間を暇だと思う?といった感じです。私はバイトのことを考えてしまうので、暇だとは感じません。考えると、私は一日空いていると感覚的に暇だと感じています。ご飯をつくる時間や食べる時間とかを決めなくていい日が暇な日です。とても面白かったです。なので、やりたいことができたときに時間を気にすることなく、パッとできたり、それについて考える時間があるときが私の捉えている暇かなと思いました。

私は暇を目指してコツコツ課題をやっているのです。

わかめ

久しぶりの考えを記録するブログです。

今日のゼミで投げられたの問いについてまとめておきたいと思います。

 

 

▷はじまり

ビジネスを成功させるには、まずファンをつくって、そのファンにモノやサービスを購入してもらうようにデザインする方が良い

このような話がゼミ生からありました。

平たく言うと、その方が売れるということだと思います。

単発でバズってもそれがきっかけで売れ続けることは難しいと考えるからと言った話です。

 

 

▷問い

それを受けて『△△が〇〇を作った』だと、△△と〇〇、どっちが軸だと思う?といった問いかけがありました。

5人ほどのグループに分けられ話しました。

これらを経て考察へ移ります。

 

 

▷考察

まず思ったこと

まず最初にこれは「ことば」の話だと思いました。モノやサービスを売るにしても、ファンを作るにしても、伝えるのは「ことば」であると思ったからです。「ことば」というフレーズは昨日の今日のダーリンからつながりました。(意味合いは紐づけてません)

それと、今消費は「モノ」→「コト」→「ヒト」へと動いていると昔新聞で読んだことを思い出しました。

 

考察へ入る

話は、今「誰々が使ってるから見てみよう」ということがよくあるよね、という話へ。

そこで、頭の中の「ことば」というフレーズにつながり、なぜ誰かの発言に依存(?)するのか?という問いがうまれ、それは「ことば」とは解釈が多様で、正解がない。(本来は予測してどう判断するかの話、あるいは判断から学びを得るといった話なのかな)そのため、確かめることができないから、発言した「ヒト」に頼るのではないかと考えました。

例えば、ご飯屋さんを選ぶとき。そこの料理を食べたことがなく、おいしいかどうかわからないので、お店の情報を見る。けれど、それを見ておいしそうな店かどうか感じるかはこちらに委ねられる。それに正解はない。決められないので、選ぶ際「△△がおいしいと言ってた」という自分が欲しい答えが直接的に見える情報を理由に選ぶ。

といったことをイメージしました。

これが良いか悪いかという話ではなく、そういうことって人にはあるよな、といった話です。

そう考えると、△△と〇〇って切り離せないんじゃない?と安直に考えました。

 

ここで出てくる問いが「本当に『ことば』に正解はないの?」です。これは正直わかりません。ただ、私たちはきっとあると思っていて(かなり「意味」に近い意味合いで)、それをとても意識していそうだなと思っています。

 

ただ言えるであろうことは、私たちは何に対しても「より良い」何か(モノ、コト、ヒトなどここは変わる)を求めているということ。これは時代を隔ててです。そして、それによって得られるものとは、「より良い時間」です。より良い時間の使い道。

ここで、はじめの消費はモノからヒトへ移っているという話とつながります。ヒト消費だとモノにエピソードがつくのではと考えました。例えば、好きなアーティスト△△のファンで〇〇を買ったとします。△△のSNS見てはじめての〇〇を見た→購入した→届いた→はじめて使った→+α(使う上で起きたエピソードなど)→別のグッズで繰り返し。これだと、モノ消費の時より時間軸が伸びるんです。幅が広がると言っても良いかもしれません。だんだん愛着と似た話になってきました。

こうなってくると影響するのが「記憶」です。知覚から入ってくる心像(知覚心像)はやがて、記憶心像になります。時間をかけて記憶心像を蓄積するわけです。となると、より良い時間を長く過ごして、より良い記憶心像をなるだけ幅広くもっておきたいというのは当然じゃないか!となりました。

次に「知覚」を見ます。ここでやっとつながるのですが、知覚の元となっているのは情報です。そして考えてみると、人は昔から情報を受け継いでいく作業をしています。つまり、文脈があるわけです。これは基本的に文字列で行なわれています。映像を見ても、感じたことは心の中で「ことば」になります。この文脈を私たちは求めているのかもしれないと思いました。

ここで気になることが。情報がまず「ことば」になって書物になり、それから科学の発展に伴い、さらに具現化?できるようになります。125年前に映画ができて、今ではVRで香りと味が体験できるコンテンツも開発されるようになっています。あれ、知覚の刺激が増えているのなら、心の中の「ことば」も多様になるのでは?と思いました。なっているような気もするし、なっていないような気もします。この「ことば」がとても大切なはずだと思うのですが、「ことば」にすることが減ってきてるのかなぁと思ったり。

 

 

▷まとめ

結論

もう何を考察していたのかわからなくなってきましたが、一応ブログを書きはじめた時に考えていた結論を書いておくと、形にならないと伝わらないので〇〇を作った。が大事だが、それは△△がどんな意味づけをするかが〇〇の長期的な価値につながるといった感じです。△△がどんな人でなんでどんな人とつくって、だからこそうまれた〇〇をユーザーが知覚して、どんな「ことば」になるのか。ここが大事なのかなと考えました。短期的な価値だと、レビューも知らない人でよくて、モヤモヤから「ことば」がうまれてなかったり、誰かの「ことば」を受け入れる形でいいのかなと思いました。なんかありきたりな結論になってしまった感がありますが終わります。

 

感想

読み返してみると、ゼミ中に頭の中でつながったことが、どこからなんでつながったのかを辿っていく作業だったように感じます。妄想でしかないけど、自分の頭の中ではこんな文脈があったんだ、と気づき、見ることができました。正解のないことに答えを出すことも「わかる」って言えるじゃないかなと思いました。「わかる」と「見える」って違うんだろうけど、何が違うんだろうと思いました。そして私に足りないのはリサーチです。

 

まとめのまとめ

話し始めるとどんどん出てくるのに、ふと振り返ると何を思っていたのかわからなくなり、話し終わると記憶が飛んで、思い出すと何でこんな話をしてるんだろう…?となる今日この頃です。妄想怖い…

経験はどう活かせる?

今日のゼミは、ミズノプロジェクトでやってきたのはどんなことだったのかという話とそのふりかえり、そして、この経験は何に活かせるのか考えようという内容でした。

 

 

▷プロジェクトのふりかえり

ユーザーの体験価値をベースにした企画

f:id:Shinkansen:20200108224836j:image

ミズノプロジェクトは、実現すべきユーザー体験とその効果の可視化の手前くらいまで行った。

ユーザーの体感価値を探策するフェーズは、頭を使う作業で、どんどん哲学的になってくる。

コンセプトアイデアは、引き出しが多くないと出てこない。引き出しを増やすためには、ムダなことをいっぱいやるといい。

企画した体験を実現するフェーズの中のユーザテストとは、プロトタイプをユーザーに渡してみること。渡してみて、ユーザーはシナリオのように使うのか試そう。ユーザーが受け取って終わりだったらダメ。

 

ユーザーモデリング

f:id:Shinkansen:20200108225740j:image

誰(属性層)がどんな体験(行為層)をすることでどういう価値(価値層)を得ているかという全体像を可視化することで、ユーザーに対する深い理解を得られるようになる。

 

人間中心設計プロセス

f:id:Shinkansen:20200108225945g:image

システムなんかはこれをもとにつくってる。

FUポータルは、システム。

システムとは、ある目的を達成するために必要な相互作用する複雑で多様な要素から構成された仕組み(組み合わせ)。

語源は、ギリシア語の 「συνίστημι」(スュニステーミ)「組み立てる」を元に作られた語句であるが、 これは「共に」を意味する「σύν」(スュン)と「立てる」を意味する「ἵστημι」(ヒステーミ)を組み合わせた動詞。

 

ゴムのユーザー

f:id:Shinkansen:20200108230014j:image

1枚目のユーザーの体感価値を探策するフェーズと密接な関係をもつ。

おもいっきり空振りしないための方法。

自分たちが想定したいないことがはまればビックヒットになる。

(例)ノンアルコールのお酒は、帰りの運転があるため、本当はお酒を飲みたくても飲めない人が、お酒を飲んだような雰囲気を味わえるようにという狙いだったが、それが妊婦さんや病気を理由にお酒を禁止されている人の欲求にもはまり、ビッグヒットになった。

 

具象と抽象

f:id:Shinkansen:20200108230821j:image

頭の使い方のこと。

具体例を抽象化することで、どこか他のところへ持っていって、そこに当てはめることができる。

洞察は、ユーザーの口にしていない欲求を見つけること。

 

 

▷なぜ抽象化するの?

f:id:Shinkansen:20200108234125j:image

就活の面接は、自分の経験がその仕事とどう当てはまっていて、どう活かせるのかをアピールするところ。つまり、自己PRは相手が求めていることを話すこと。

これは、商品提案や営業もそう。

下手な人は、自分や自社のことばかり話すけど、上手な人は、相手のことを見たり(観察)聞いたり(インタビュー)して、UXは基礎教養として身に付けている。

体験でしか語れないようになってはいけない。

それは人事の能力に全てを委ねていることと同じで、主体的でない。

だから、自分の経験が何に活かせるのか考えることが大事。なんでこれが活きるの?とかなんの力が隠れているの?(例えば、人の話を聞く力)とか問いかけよう。

そのためには、日頃の学びや気づきを記録しておくことや、業界や仕事の内容を知ることは不可欠。

 

 

▷プロジェクトの経験は営業の仕事にどう活かせる?

先生から聞いた事例

石村萬盛堂は、ホワイトデー発祥の和菓子屋。なぜそんなことをしたのかというと、バレンタインデーにチョコを貰った男性は、女性に間違ってないものを返したいという欲求があった。そこで、「ホワイトデーにはマシュマロ」という定番をつくり、その欲求を満たした。

このように、ユーザーの欲求をついた流行や習慣をつくり、その定番商品として販売するという手法がある。

では、そこまで影響のない企業はどうすればいい?

例えば、鍋のスープの会社の営業になったとして、スーパーに自社の商品を置いてもらうにはどうしたらいいか。

それは、スープコーナーではなく、鍋の具材の近くに置いてもらうこと。お客さんの行動パターンを見ると、その方が手に取りやすい。大勢の中だと選ばれにくい商品でも、味が美味しければ負けない。

そして、他社がそれを真似することで鍋コーナー自体が大きくなる。そこで存在感が出せれば、定番商品になるかもしれない。

ただ、ずっとそのままではいけないので、また新しいアイデアが求められる。だから、営業の仕事にもクリエイティブな発想が求められている。

 

つまり、ええっと

先生から聞いた事例だと、絆創膏の行動観察とミズノプロジェクトの上位下位分析を合わせる感じかなと思いました。ユーザーがどんな風に利用するか見て、その事象を集め、そこから欲求を探る。そして、見つけた欲求を満たすためには、どうすればいいのか考える。出てきたアイデアは、ユーザーテストをして、ブラッシュアップし、ユーザーや提案する相手が欲しがるところまで持っていくという感じかなと思いました。

でも、これが具体なのか抽象なのかわからなくなり、具体に戻すで合ってるっけ…?といった気持ちです。

 

どこからが経験?

私は気づきや学びに気づいても、身についていないことが多いです。こういう場合は経験といっていいのかなと思いました。経験してても忘れてたらダメじゃない?とか、経験も事実ベースにすべきなの?とか。でもそれだとあれやったこれやったになりそうです。結局、学びって事実なの?それは経験なの?どこからどこまでが経験と呼べるの?となりました。やったことと学びの境界線がわからないなと思いました。